目標金額 支援者一人あたり 12万円/年 × 3年間  募集人数6人

山川千秋さんのプロフィール ※本人が特定されないよう個人情報に多少の修正を加えています。

〇18歳(インタビュー時)女性 (近畿地方生まれ)
〇生まれた当初は父母兄の4人家族。幼少期に両親が離婚し、父と2人暮らしへ
〇小学校5年生のとき、父が突然亡くなる。母宅を経て児童養護施設に入所
〇2025年4月から3年制の看護学校に進学
〇将来は助産師として命の誕生に立ち会うことが目標

 

自己紹介

 

長所:

決めたことは最後までやるところです。私は児童養護施設に入所していますが、進学したいとずっと考えていました。そこで、高校3年間ラーメン屋さんで週3〜4日アルバイトをして進学費用を貯めました。アルバイトは今も続けていて、みなさん優しいですし、賄いも頂けるので、これからも続けていきたいと考えています。

最初は覚えることが多すぎて、「無理!」ってなったこともあったんですが、ちょっとずつ慣れて、今はもう、それも楽しいです。

私はとにかく進学したいという気持ちが強かったので、今まで施設の先輩方は就職の人が多かったんですが、「自分は絶対進学したい、だから頑張るしかない」と思って乗り切りました。

 

短所:

マイペースなところです。周りに対してはせっかちなんですが(笑)。自分は割と課題をやるのが遅かったり、最後まで残ってたりするんですが、たまに自分が早く終わったりすると、終わってない子とかみたらまだかなー?ってなってしまいます。

そういう時は友達にも「たまに早く終わったからって!」と注意されます。(笑)自分でもそこはちょっと直したいと思っています。

あとは無意識の内に、感情が表情に出やすいです。多分自分の感情に素直すぎるんだと思います。

 

趣味:

韓国のドラマ・アイドルが大好きです。推しはENHYPENという7人組の男性アイドルグループです。一応箱推し(グループ全体が好き)ですが、ジョンウォンという子がザ・アイドルって感じでプロ意識高くて好きです。ファンと繋がれるアプリがあるのですが、毎日本人が自分で写真とか撮ってアップしてくれて、すごくマメでファンサービス精神がすごいなと思います。ENHYPENは中学の時に、オーディションの時から見ていて。デビューの時のアルバムは買って、その後一回離れていたんですが、バイトの先輩がライブのチケットに当たって、行けないからと譲ってもらったんです。それでライブに行ったらもうどハマりしてしまって、この間の1月もライブに行ってしまいました!実は夏にもチケットが当たっていて、ものすごく楽しみにしています!

好きなドラマは、結構色んなの見るんですけど、最近だったらミスタープランクトンっていう恋愛ドラマが好きです。面白いドラマはTikTokとかで面白いドラマの感想の投稿を見つけて、「これ面白そう」というのを見つけて観ています。

 

特技:

趣味が高じて韓国語です。独学で勉強しました。K-POP好きだったので、中学の時から「ハングルはわからないと!」と思い、YouTube観ながらノートを作ったり、寝る前に韓国ドラマを観ながらシャドウィングしたりして勉強しました。

今はハングルは全部わかります。聞いたり、読んだりするのは得意なんですけど、書いたり、特に喋るのは、発音が難しくて苦手です。

元々海外の文化とかには興味があって、そういうのを知るのが好きなので、好きなことは覚えられるんです。

 

 

幼少期と家族について

生い立ち〜小学校入学前まで:

生まれた時の家族構成は父、母、兄です。私が2,3歳の時に父と母が離婚して、私が父、兄が母に引き取られました。母と兄には、小学校5年生で再会するまで、一度も会ったことはありませんでした。父はそれまでは会社の経営をしていたんですが、離婚をきっかけに県外へ引っ越して、市役所で働いていました。そこで小学校5年生まで過ごしました。

小学校に入る前は保育園に通っていて、友達のことが大好きでした。すごく活発な感じで、外で遊ぶことが多い子どもだったと思います。

お父さんは厳しい時は厳しいんですけど、すごく優しくて、大好きでした。母がいなくても、そういうもんだと思っていて、大好きなパパがいればいいやっていう感じでした。

父は仕事帰りに毎日17時くらいにお迎えに来てくれていたので、そこまで寂しくもなかったです。

 

小学校時代:

小学校は地元の公立小学校に入学しました。保育園時代からの持ち上がりで顔見知りの子も多くて安心でした。小学校時代はものすごく積極的で、授業もすぐ手を上げるみたいな感じの子でした。勉強も結構できて、苦手科目もなかったので、全科目「私が答えたい!」という気持ちでした。

運動も得意で、特に50M走とか、短距離走が得意でした。小学校3年生くらいまでは学童に通っていて、それまでみたいに17時くらいに父にお迎えに来てもらっていました。小学校時代も友達が大好きで、友達と遊びに行く時は、一旦家に帰って、自分の分の洗い物だけしたら、すぐに遊びに行く!という感じでした。小4〜小5まではそろばんも習ってました。

 

父が亡くなったのは、小学5年生の時です。元々心臓が悪くて病院に行ってたのですが、その日も「病院行ってから仕事に行くわ」みたいな感じでいつも通りだったんですが…本当に突然でした。もう、訳がわからなかったです。

 

その後、一旦父方の祖父に引き取られたのですが、父の家系が男の人ばかりで、父と暮らすのは良かったんですが、他の男の人と暮らすのは自分的にはちょっとストレスが大きくて…その時に、母が会いたいと連絡をしてくれました。そして7〜8年ぶりに母と再会して、一緒に暮らし始めました。そのタイミングで両親の離婚前に暮らしていた県内に戻ってきました。

母のことは、全く記憶になかったので、再会した時に、全然顔も分からなくて、「はい、この人があなたのお母さんですよ」「あ、どうも…」みたいな感じでした。

てっきり母と2人で暮らすのかな?と思っていたんですが、いざ蓋を開けてみると母の新しいパートナーとお子さんたちがいて…あぁ、みたいな感じでした。二人暮らし、という心積もりと、知らない人がいる、となるとやはり全然違うので…。

ちなみに兄は、母が父と離婚した後少し病気になり、母方の祖母に預けられて以降、ずっと祖母の家で暮らしていました。なのでこの時も会いはしたのですが、一緒には暮らしませんでした。

 

新しい家族は、優しくはしてくれたので、私もそれに頑張って合わせるみたいな感じでいました。それでもやはりちょっとしんどかったです。自分は一応娘だけど、記憶にはないし、いきなり「お母さんです、一緒に住みましょう」ってなってなんか、「私ここにいていいのかな?」みたいな、自分だけが部外者みたいな感じがずっとありました。すごい辛い目に遭わされるとか、そういうことはなかったんですが、自分より小さい年齢の他の子ども達はまだ起きてるのに、私だけ「もう寝なさい」って言われたりすることもあって、疎外感はありました。

 

私は元々友達が大好きなので、よく学校終わりに友達と遊んでいたんですが、家に帰りたくなかったので、ある日、「暗くなるし遊びに行ってはダメ」と言われていた6時間目の授業がある日も遊びに出掛けました。一応家に連絡入れてたんですが、その時に、めちゃくちゃ怒られて「もう帰ってくるな」みたいなことを言われました。そこから、喧嘩が増えて、余計帰りたくなくなって、向こうからも「じゃあ出て行け」ということを言われるようになりました。でも帰るしかないので、帰るんですが、帰っても、重い空気の中で生活していました。

そんな感じで多分もう、お互いに無理ってなった時に、(母が)児童相談所に何回か相談しに行っていたみたいで、結構いきなり、出ていくことが決まりました。
1回児童相談所の人と面談みたいなことをして、2回目も話すのかな?と思っていたらもう荷物も持って、「あ、離れるんだ」みたいな感じで今の施設に入りました。

結局母と暮らしたのは、2か月間だけでした。その間だけ通った小学校のことはあまり記憶にないです。

こちらに来てから、周りの目を気にするようになったというか、前みたいに積極的に手を挙げる、みたいなことはなくなりました。新しい環境で誰一人知らない人たちの中での生活だったので、あまり前には行けませんでした。

 

父が亡くなって、その時はすごく悲しかったんですが、こんな風に周りの変化が激しすぎて、環境についていくのが必死で、あまり父のことに向き合って考える暇がありませんでした。気がついたら時が経っていた、みたいな感覚でした。

 

小学校5年生は私にとって激動の時代というか、人生が変わったタイミングだったと思います。

 

児童養護施設での生活

施設に入ることになった時は、今までテレビでしか知らなかったので、「どんな感じなんだろう」っていう不安はありました。でも来てみたら結構自由な感じで、今までは家事手伝いもしていたんですが、施設の先生方がやってくださったりしたので、自分としては全然、生きづらいみたいなのはなかったです。

私は一人部屋でした。

(母と暮らすために)こちらに戻ってきた後、以前の友達が手紙をくれたりしていたんですが、施設に来てしまったのでもう一切連絡が取れなくなってしまって、それが悲しかったです。

施設に入ってからも友達はできたんですが、ものすごく少なかったです。みんな優しい、ふわふわした感じの子達だったので、私もそれに合わせてました。

私が施設から通っているということは、周りの人はみんな知っていました。施設の子はみんな同じ小学校に行くので、まあそれは結構当たり前っていう感じでした。

中高になってくると、友達が大好きなのに、お泊まりもできないし、門限もあるし、みんなが遊んでいるのに自分は先に帰らないといけないみたいなのがしんどかったです。

帰らなきゃいけない時は、仲の良い友達には施設に規則が厳しいということは伝えていたんですが、それほどの子には「ウチ、家厳しくて」で通してました。

施設の先生方はみんないい人ばっかりでした。先生とは年齢は離れていても友達みたいな感じで、自分の子どものように可愛がってくれて、大切にしてくれたのは本当にありがたいなと思います。

ちょっと腹が立つようなことがあったりして、それを言っても、割と受け止めてくれたり、サラッと流してくれますね。次の日になったら何もなかったような感じで接してくれるのでこっちもあんまり気にしすぎず接することができました。

実は施設に来たばかりの時、一度大爆発したんです。もう大泣きしながら怒るみたいな感じでした。施設に慣れるまでずっと耐えていたのと、一人ものすごくそりの合わない子がいて、大喧嘩しました。その時、施設の先生に「もう溜めちゃだめだよ」と言われました。

施設の子の中にはソフト部の先輩みたいに仲のいい人もいれば、やっぱりそうでない子も何人かはいました。いろんな子がいたと思います。一緒に暮らしていた子たちは兄弟とまでは行かないですが、感覚としては友達よりも家族に近いかなと思います。なんでも言えますし、友達には言いづらいことも相談できたりします。施設を出た後も、結構連絡を取り合っている子もいます。

 

中学生時代

いろんな小学校から生徒が集まる、県立の中学校に進学しました。小学校時代のクラスメイトともみんな一緒だったんですが、中学に入ったらやっぱりグループは別々になりました。中学校の友達の方が、馬が合う感じでした。中学では、自分が施設から通っていることを知る人は少なかったです。ものすごく仲のいい子にだけいうみたいな感じでした。

中学では、中一から塾に通っていました。科目は数学が得意で、一つの答えを導き出すのが楽しい!って思ってました。反面、歴史とか社会系の科目がダメでした。嫌いすぎて覚えられなくて…でも5教科500点満点で、いつも400点以上は取っていたので、基本どの科目も80点は絶対に取ってました。社会で点数取れなかった時は、他の科目で挽回してました。中学校は勉強も、部活も頑張っていたと思います。

部活は施設の仲の良い先輩がいたので、ソフトボール部に入って、キャッチャーをしていました。

部活では試合にも出させてもらっていて、中2の終わりからは顧問からの指名でキャプテンも務めました。私以外、小学校からやってる子ばかりだったので、すごいプレッシャーでした。私は技術はそこまでだったんですが、人をまとめるのは割と昔から得意だったので、それで選ばれたのかな?と思います。
特にこれを心がけていた、ということはないんですが、いつも割といい方向に行ってたんで、自分には割と向いているかもと思っていました。

人数がカツカツだったので、みんな結構試合に出てて、ミスしても怒るようなことはなく「次頑張ろう」みたいな感じで、すごくいい子たちばかりでした。

私は本当に、昔から周りにいてくれる人、人間関係には恵まれているなと感じています。

 

 

 

高校生時代

高校は、もう一つレベルの高いところに行こうかな?と考えていたんですが、仲のいい子たちがみんなその近くの高校に行くので、自分も仲のいい友達と一緒がいいなと考えました。その高校で、上の方の成績を維持するのもいいんじゃないかな?とも思い、先生と相談して、その高校なら近くて自転車で行けるし負担も少ないだろうということで、最終的にそちらに決めました。高校は中学の時の子達もたくさんいて楽しかったです。

高校の時は、積極的な感じではなかったです。やっぱり知らない子もすごく増えるので、ちょっと変わったと思います。最初はちょっと緊張してました。でも慣れてきたら手を挙げるまではしないんですけど、ちょっと発言したりはしてました。

高校ではアルバイトばっかりで、部活はしませんでした。高1の月の終わりくらいから今もやってるラーメン屋さんでアルバイトを始めて、もうバイトメンバーの中では2番目に長いです。アルバイトの目的は、進学費用を貯めるためでした。

勉強は得意だった数学が苦手になってしまったんですが(笑)、国語と、あと地理がすごく好きで、成績も良かったです。中学の時よりかは成績は落ちてしまったんですが、提出物を真面目に出したりすることで、ポイントを稼いでいました。

受験対策は、推薦で受けるというのは決めていたんですが、それで受かるかどうかはわからなかったので、一般入試の対策もしていました。年生の時からワークや教科書を使って勉強をして、特に苦手だった数学を解いてました。また、看護学校対策講座を学校で設けてくれていたので、そこで試験対策をしたり、小論文対策として、過去のお題を見てそのテーマに沿って書いたりしていました。面接対策もやりました。

 

進路について

看護師になりたいと思い始めたのは、高校に入るちょっと前です。

それまでは進学したいなとは考えていたんですが、何をしようかなと考えていました。それで、よく考えた時に、父が亡くなった時に看護師の人に助けてもらったというか、すごく支えてもらったことがやはり自分の中で大きな体験としてありました。父が亡くなった時、私は悲しくて悲しくて、悲しすぎて、ずっと泣いていたんです。その時に、特に何かをしてもらったというわけではないんですが、ずっと看護師さんが横にいてくれて、喋らなくても安心というか、温もりを感じました。そういう寄り添いができるのはとても素敵だと思い、看護師に憧れるようになりました。

でもやっぱり看護師って亡くなっていく人とかも見ていかないといけないじゃないですか。そうなった時に、それよりも命の誕生の方と向き合いたいと思い、助産師を目指し始めました。それが高校年か年生の頃です。進路を考えるにあたっては施設の先生ともよく話し合いました。

実は中学からKpopへの憧れから近所でジャズダンスを習っていたんですが、アルバイトとの両立は忙しくて余裕がなく、泣く泣く高1の夏に辞めてしまいました。また余裕ができたらやりたいなと思っています。

 

志望校を決めたのは、高2の夏か秋くらいです。決め手は…近さです(笑)。やはり一人暮らしになるって考えた時に、あんまり遠くへ出ちゃったら、何かあった時に頼れる人がいなくて不安だなと思いました。あとは学費が安いことも大きかったです。大学へ行くとお金がかかってしまのですが、進学先は3年で看護師資格が取れるということも魅力でした。また、国家試験合格率100%という合格率の高さにも惹かれました。

 

受験の面接は、うまくいった!という感覚がありました。グループ面接で、学生3人、試験官の先生5人だったんですが、すごく楽しくて、もう一瞬で終わったような感覚でした。合格した時はとても嬉しかったです。

 

ただ、進学するにあたってはやはり不安も大きかったです。特に一人暮らしが不安でした。自分で全部やらなきゃいけないし、もし何かあったらどうしようという気持ちがあります。金銭面も不安です。でも普通の大学に行くよりかは格段に学費は安いので、頑張ろうって思っています。

年間、本当に勉強を頑張っていきたいです。私はちょっと理系が苦手なので、そこもついていけるかなって少し不安です。中学までは得意だったので、よみがえれ、って思ってます(笑)。

 

普通の大学だったら年勉強できるんですが、進学先は年なんでおそらくカツカツのスケジュールになると思います。授業は90分で、だいたい毎日4〜5時間ある予定です。そしてそこから17時半とか18時くらいから22時くらいまでバイトをする生活になると思います。でも普段の授業の後にも演習のために残ってテスト勉強をしたりもするらしくて、もしかしたら沢山はアルバイトに入れないかなと思います。特に年生は10月くらいまでずっと実習があるみたいです。それが終わったら今度は国家試験の勉強に入っていくので、年生はアルバイトはほぼできないと思います。

 

本当は…いけるものなら大学に行ってみたかったです。夏休みも長いし、授業も早く終われる日があったり、その後、遊びに行ったりするのにも憧れてはいました。でも、内容的には同じことを勉強するし、もうそれはいいかなと思います。自分でお金を稼げるようになったら、叶えます。

 

 

家族への思い

母とは小学校年生以来会っていません。連絡も取っていません。小学校年生の時の記憶で止まっています。また一緒に暮らしたいなとは思わないです。ただ、小学校5年生の時だったら分からなかったことも、今なら大きくなって理解できる部分もあるので会って話してみたいなっていう気持ちはちょっとあります。

児童相談所の人は連絡をとってくれているみたいなんですが、母が自分に対して連絡とかをしてこないので「自分はどうしたらいいんだろう?」って感じで、どう歩み寄っていいのかも分からないです。お母さんが全部悪いってわけでもないので、腹立つこともありますけど、でもお母さんがいなかったら自分は生まれてないので、結局いろんなことがあって施設に入所したけど、その分いろんな人と出会えたので感謝はしてます。

 

お父さんに対しては…なんかもう申し訳なくて。一人で自分を育ててくれて、私が小学校5年生で小さかったので自分中心というか、自分のやりたいことばっかりお願いしてたので、それに全部答えてくれたので、今思えば、大変だったろうなみたいな、もっとしてあげたかったなぁという気持ちはあります。

 

将来の目標

看護学校を年で卒業した後に、助産師学校に編入したいと考えています。その学校に入学するためにまた試験があるので、年生は実習と、国家試験と、助産師学校受験で本当に忙しくなると思います。助産師学校については、入学してから、先生と相談して準備をしていこうと思います。

将来は助産師になって、命の誕生に立ち会いたいです。

その上で、今まで我慢して施設に入ってたり、自分の好きなこととか我慢してきたけど、お金を貯めて、いろんなことに挑戦したいなと思います。

具体的には、語学とかについて勉強したいなと思うのと、海外に行っていろんな人と出会って話してみたいと思います。せっかくハングルもわかるので最初はまず韓国に行って、その後ヨーロッパとか行ってみたいです。特にスイスに行ってみたいです。

 

施設の子どもたちに伝えたいこと

ちょっとでも目指すというか憧れるものがあるんだったら、今施設にいるけど、諦めるんじゃなくて、どうにかなるから、勉強も頑張った方がいいと思います。とりあえず諦めたらダメだと思うので、変わるか変わらないかわからないけど自分にできることは頑張ってやったほうがいいと思います。

施設には諦めている子や、学校に行ってない子も結構多くて、せっかく行かせてもらってるのにもったいないなと思っています。きっと後から後悔するんだろうなって思う子が多いので、今頑張って欲しいなとは思います。

千秋さんを応援してほしい理由(施設職員さんからのメッセージ)

職員Aさん

初めて出会ったのは小学6年生、新任職員だった私をたくさん手伝って支えてくれる子でした。年少児にとってもみんなから親われる、お手本となる素敵なお姉さんでした。「お父さんを亡くした時に支えてくれた看護師のようになりたい」と目標の看護学校に行けるよう高校3年間も勉強にアルバイトに本当によく頑張りました。『助産師』という新たな夢も追いかけられるよう、看護学校でも努力を続けて下さい。そして絶対幸せになってくださいね。

 

職員Bさん

小学5年生で施設にやって来た千秋ちゃん。不安もあったでしょうが、それを感じさせない明るさで、いつも周りを照らしてくれました。小さい子たちを優しく見てくれる良いお姉さんで、職員も助けてもらうことがたくさんありました。いろいろ悩むこともあったと思いますが、「助産師」という素晴らしい将来の目標を見つけてくれて、本当に嬉しいです。自分の力で生活しながら学校に通うのは大変だと思います。それでも千秋ちゃんなら大丈夫!夢に向かって頑張ってくださいね。

 

職員Cさん

千秋ちゃんは「自分は周りの人に恵まれている」と話していたことがあります。それは、日々千秋ちゃん自身が感謝を忘れず、周囲の人を大切にしていたからと思います。

 

職員Dさん

ちーちゃんとは過ごした1年間、笑顔が素敵な女の子で、年下への面倒見も良くとても助かっていました。新しい場所でも適応能力のあるちーちゃん、どこでも輝いていけると思います。自分のしたい事は何でも挑戦し、たくさんの事を経験していってください。看護学生を全力で楽しいで、お勉強頑張って下さい。応援しています。

 

職員Eさん

出会ってから一緒に過ごした期間は1年と短かったけれど、ちーちゃんから学ばせてもらうことは沢山ありました。ちーちゃんは、人を思いやる気持ち、周りを笑顔にする明るさ、そして人の気持ちに気付き寄り添える温かい人です。又自分の夢や目標に向かいひたむきに努力することもできます。これからはどんどん世界が広がり、楽しいこともあれば辛いことにも直面するかもしれませんが、気を張り過ぎず休み休みに頑張ってね。ずっと応援しています。

 

資金計画

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