裕 基金

 

裕(ゆたか)基金とは

裕さんの母からの一通のお手紙がみらいこども財団に届いたことがきっかけとなり
みらいこども財団と裕さんの母が話し合いをし、裕さんのように様々な障害に負けずに頑張る子どもたちを
支援するために寄付していただいたお金を使ってほしいという希望により、オンライン里親プロジェクトの基金として、お金だけでなく裕さんの意思を子どもたちに伝えるという意義をもって2023年度設立しました。

不慮の事故の結果、障がいを持ちながらも闘い続け、精一杯生き抜いた結果
42歳でこの世を去った裕さん。
基金を通じて、1人でも多くの若者が裕さんの人生を知り、学ぶことの大切さや命の尊さを感じていただき
大いに学び、豊かな人生を歩まれることを心から祈ります。

幼少期

幼い時期から母親は裕さんに毎日読み聞かせをしていたそうで、裕さんは気に入った絵本は何度も何度も読んでほしいと母親にねだっていた。そのせいか、文章の才能やユニークな考え方はこのころに身につけたのではないかとお母さんは言っています。
兄が体が大きく、スポーツ万能であったが、裕さんは兄に比べるとそれほど大きくないこともあってか、スポーツは普通にできる程度であったが、そのかわりにユニークな発想で周りの人を楽しい気持ちにさせるサービス精神旺盛な子どもであった。
周りの人からはやんちゃで面白い子どもという評価であったが、一方では一時期の間に幼稚園に行けなくなるようなデリケートな一面もあったようである。

家庭は父が自由方便な人であり、母親が仕事をしながら苦労して家庭を支えていた。
決して良いとは言えない家庭環境の中で裕さんは勉強も優秀な成績で、習い事も中でも習字は特待生となるなど非凡な才能を持っていた。

中高時代と闘病生活

中学に進学してからも学業は優秀で明るい性格からクラスでは人気者でした。
一方家庭では、母の家庭菜園のお手伝いをするのが好きで、親の誕生日には決まってプレゼントを忘れない、周りの人への気遣いのできる青年であった。
中学卒業後は電気工学を勉強できる学校へ進学し、東京で一人で寮生活を送るようになる
そのころから体に異変が起こるようになり、実家に帰ってきたときに眩暈がするなどの症状を口にするようになる。
1993年、病院で診断をした結果小脳血管腫の可能性があるということで、緊急手術を行う。
しかし、不運にも手術後に障害がのこってしまい頚髄損傷の不完全マヒの障がい者となってしまう。
両手を広げた中指から下の不完全マヒであり、家庭は経済的にも厳しい中で親子で必死にリハビリを行った結果、奇跡的に片松葉で歩けるようになるまでに回復する。
長期にわたる入院生活のために学校は退学を余儀なくされるも、リハビリをしながら大検に1発合格する。しかし、当時の大検は入学試験を受ける資格であって入学資格ではないとの理由から多くの通信制大学から受験を拒否されるが、主な理由は障がい者が学ぶための設備がないというのが当時の大きな理由であったと考えられる。
最終的にはこの道の東大と呼ばれる国立リハビリテーションセンターの職業訓練校に入学する。しかし、あまりにも一般常識的な内容の授業に満足できず、センターに設置している最先端の機器を独学でマスターしたのち訓練終了前に退所して社会にでる決意をする。

症状
血管がマヒしており、全身に血液を送るほどの力はなく起立性低血圧、めまいなどに悩まされる。
汗をかくことがないため体温調節ができない。
完全マヒの人は全く感覚がないのが通常であるが、完全マヒではないために知覚異常ですべてを痛みと感じてしまう。
神経因性疼痛という神経の痛みがあり、次第にひどくなり末期には音にさえ痛みを感じる。
その他全身に不調を感じる。
など多くの症状で苦しんでいました。その時が裕さんにとって一番つらい時であり、毎日今日死ぬかもしれないと思って過ごしていたそうです。
しかし入院生活では、誰かのせいにしたり、泣き言を一切言うことはなく、病院の多くの方から慕われていたと言います。

 

社会・家族・障がい

22歳、当時はIT技術者は引く手あまたであり、裕さんは健常者としてシステム会社に就職が決まる。
会社では優れた技術と、非常にハードな環境にかかわらず高い業務遂行能力で高評価を得るようになる。
母には手紙で「健常者以上に評価をされていることが誇りです」と伝えており、「自分自身の生きざまを見せることが障がい者となった自分の義務です。」と友人への手紙を送っている。
常に前向きに、努力をいとわない彼の素晴らしい姿勢を感じるエピソードである。
しかし、一方で常に最先端の技術を習得しなければならない環境に対して不安を感じることもあったと言う。
25歳 結婚
中学生時代の同級生と結婚する。
妻方の親には反対されるが、必ず幸せにすると誓ったことからも並々ならぬ責任感をもって結婚したことがうかがい知れる。
32歳 長男誕生
人工授精で初めての子どもを授かる。
同時にうつ病を発症する。当時の状況はがんばってもがんばって、もうこれ以上頑張ることができない状況であったのではないかと周りの人は言う。
その後環境を変えるために沖縄への移住を行うも、家族を含めて環境が合わずに帰省し、病状も悪化したために長期の休養を余儀なくされる。
今までは健常者として健常者枠で働いてきたが、体の無理がきかず障がい者枠での就職を決意して大手企業に入社する。
当初は通勤勤務であったが、体力的な問題で次第に車いす通勤となり最終的には在宅での勤務となる。
仕事においては高い信頼を得て、社員のカウンセリングなども任せてもらえるようになる。
一方で健常者の頃の裕さんはたいへん人気者であったことから障がい者としての劣等感は相当なものを抱えていたようである。

38歳 長女誕生
長男と同じく人工授精により長女を授かる。
口癖は「こどもが20歳になるまでは頑張る」と病状は悪化するも家族を支え続けていた。

42歳
うつ病の進行とともに神経因性疼痛は悪化する一方であり、「音でさえ痛みに感じる」とよく漏らしていた。
カウンセリングなども受け、回復をめざし最後まで病と闘い続けたが力尽き、42歳で自死する。

想い

母の想い
「裕は障がいに負けて自死したのではなく、障がいというものに真正面から闘い、そして力尽きてしまったのです。彼がどう生きたかを伝え続けたい。」という思いで裕基金として後世の子どもたちに思いを伝えたいと考えました。
障がい者になった彼は、普通見られるように荒れるということが一切なく、医師や周りの人から驚かれ、褒められるような人でした。

どこまでもきれいな心を持ち、自分の死と向き合える美しい魂を持った人でありました。
障がい者として、精一杯生き切った裕さんの想いを通じて
学びたくても学べない子どもたちを一人でもなくすこと、そして裕基金で学んだ子どもたちが、次世代の子どもたちを支えることができるように力になれたらと裕基金を設立しました。

生前の裕さんは自分の死についてこう話していたそうです。

「死とは原子レベルのリサイクルで、意識は継承されない、死は無である。」

裕さんの志と想いは世代を超えてきっと継承され、少しでも優しい社会が実現しますように。

裕さんの描いた絵

 

 

 

 

 

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